"動的な均衡"
勝俣 涼/Ryou katsumata (美術批評)
『美術手帖』2016年7月号 vol.68 No.1038
メディウムの物質的特性、その量、色、塗りの面積、介在する道具、動作、その力の度合い。そういった様々なファクターが複数的に関係し、タナカヤスオの画面は構築されていく。もちろんそのようなプロセスは、あらゆる制作が多かれ少なかれ通過するものだ。しかしタナカの作品群の眼目は描かれる題材の「自然さ」、すなわち表象の透明性を確保するためにそうしたプロセスの痕跡を拭い去り、解消してしまうのではなく、むしろ制作において展開されるファクター相互の干渉こそを題材化している点にある。画面に加えられる一手一手が積み重なった履歴が、痕跡として残存している。
プロセスを保存しているという点で、タナカの絵は「動的」である。しかし一方でそこには、絵画内的=自律的な「均衡」が実現しているようにも見える。白、黒、灰に色数を制約した上で、グレースケールの各段階が個々にもつ軽重を対比させる手法は、おそらくこの「動的な均衡」という実質に貢献している。スキージーなどの硬質な道具によって色面をスクラッチする技法は、部分のたんなる削除にとどまらず、上書きされた下層をふたたび呼び戻し干渉させ、重層決定されたイメージの履歴=歴史に表層をつなぎとめる。《No.100 分岐時間》を見てみよう。全体を覆うように流れ出す黒が、スクラッチと白の塗りによって右下方で塞き止められている。タナカ作品の「均衡」とは、特定のファクターの支配的な膨張に抵抗し、別の力動を導入する手続きへの帰路なのだ。
2016年
"物質との対話"
福士 理/Osamu Fukushi (東京オペラシティアートギャラリー キュレーター)
タナカヤスオの作品は、一見したところ、手堅くオーソドックスな造形作品に見えるかもしれない。
しかし筆者は、なぜかちょっと変わっているという印象、ある種の新鮮さを、強く感じた。
ひと目見て、まずそれがある生命的な光輝につつまれていることに引きつけられた。生命的といっても、描かれているイメージが生き生きしているとか、単に動きがあるとか、そういうことをいいたいのではない。そうではなく、作品が、まず物質、モノとしての充実した表情をもち、質感や肌理などの豊かなニュアンスのうちに自足し、あたかもそれ自体で生命をもって息づいているように感じたのだ。
実際タナカは、絵具を使って何かのイメージを「描く」というより、絵具もまたひとつの物質であるということを意識しながら、その物質としての絵具を画面に「置く」というつもりで制作するという[●01]。そして計画や計算はせず、画面が見せてくる表情にそのつど直観的、身体的に応答することで制作を進める。その過程を経て、タッチやストロークが集積された画面が立ち上がってくる。そして、当初は作家自身の分身であったり、作家と密着していたりした作品が、徐々に作家から「分岐」し、程よい距離感がもたらされたとき、作品は完成するという。
近作のタイトル「分岐時間」は、そのことを含意している。それはまた、作品が徐々にそれ自体の必然性によって内的な構造を獲得し、一つの生命的個体として作家から自立するプロセスでもあるだろう。
では、筆者が感じた新鮮さとは、いったいどこから来ているのか。一つには、タナカの作品が、空間を喚起する特有の力をもっているということがあるのでないか。
タナカは白、黒、灰色といった無彩色にほぼパレットを限定しており、また大きな描き直しや修正をせずほとんど一気に作品を完成させる。そのためか、どこか東洋の書を思わせるところがあり、実際に「書き順」を辿ったり、個々のタッチやストロークがどんなスピードや力の入れ具合で生まれたかがある程度読み取れたりする場合もある。もっとも、そうしたタッチやストロークの集積が全体として、どのような空間の表現へ向かっているのかは、必ずしも判然としない。
むしろそのような単純な、一義的な空間把握を徹底して回避しようとしているのがタナカの作品なのである。
タナカの作品は抽象的であるが、しかし同じく抽象的な作品といっても、昨今の画家でよく見かけるのは、作家の脳内イメージをそのまま画布に描きだしたような作品である。そうした作品は、見た目は抽象でも、脳内イメージをそこに「再現」しようとしているという意味では、むしろ「写実的」、ないし「具象的」なのであり、とりわけ多くの場合、一義的な統一空間をバーチャルに分かりやすく表象している。それに対して、タナカの作品がはらむ空間性は、いたるところ断絶や飛躍を内包しており、本質において多義的、流動的である。しかもそれは、「物質」というリアルな世界との対話、格闘を経てもたらされているがゆえの強度を備えている。
タナカは、制作の際に大切なのは、描く行為によって生まれた「痕跡」や、画面に生まれる「意味」や「イメージ」を、さらなる行為によって出来るだけ消していくことだという。それは、画面に置かれたタッチやストローク、面などが、何らかの運動、アクションを一義的に「絵解き」するような、ある意味で短絡的でダイレクトな痕跡となってしまう事態を克服し、痕跡としての生々しい物質性は保持したまま、同時にそこに様々な見えかたや解釈に開かれたニュートラルなあり方をそのつど求めていくことである。それはまた、画面全体が一義的な空間の表象に回収されてしまうのを回避し続けることでもある。
タナカの作品を子細に見れば、個々の部分は相互に緊密、堅固に結合しているようでいて、じつは微妙に互いに物質性や空間性などの脈略が異なっており、しかも唐突に並置されていたり、衝突させられたりしているのが分かる[●02]。そこから、一義的な統一空間とは異なる、この画家に特有の空間性が生じてくる。その空間とは、見る者の積極的な意識と身体のなかで、そのつど生まれては解体し、組み替えられ、更新されるという多義的、流動的な空間性である。そうした空間性の体験は、作品からの語りかけに端を発した、作品と見る者との対話のプロセスのなかで進行する。
その意味で、タナカがいたずらに作品の巨大化を志向せず、適度なヒューマンスケールを保っていることは重要だ。タナカの作品は、すでに触れたように生命的な個体としての相貌をもつが、程よい物理的な大きさは、さらに見る者が作品を、自己の身体の類比として受入れ、積極的に対話することを容易にする。タナカの作品は、見る者を包囲するような巨大さによって圧倒したり、一方的に「体感」を強要したりする類の作品ではない。それは自己の存在を通して静かに語りかけ、同時に積極的で自覚的な対話への参加を求めつつ、向き合う者のうちに意識の変容をもたらすのである。
01 タナカ自身が語る制作論については、本人とのやりとりのほか、Web上の「タナカヤスオインタビュー(第1回)」 等を参照した。
→http://itamuro-daikokuya.blogspot.jp/2015/10/blog-post
02 菅 木志雄はタナカの作品に「空間の断片化」を指摘し、「空間上に浮かんでいるような色体が、関係も脈略もなく点在している」と書いている。
この拙文は菅の慧眼に多くを負っている。菅 木志雄「浮かんであるもの」『タナカヤスオ展』リーフレット、板室温泉大黒
2016年
"浮かんであるもの"
菅 木志雄/Kishio Suga (Artist)
タナカさんの作品は、「空間の断片化」というべき内容を含んでいるようです。
見方を変えれば、空間は断片的にとらえられるものではないという前提があります。
空間は、とぎれることなく、つながり広がっている故に、〈空間〉という認識が、
通常は成立しているとされなくありません。
そのようなただ広がっているような空間を見ようとすれば、なんらかの尺度つまり
媒体を持ち込んだり、加味しなければ、空間のありかを知ることは、難しい。
何かがあれば、それを介してそのあり処が何であるのか、認識できるのではないかと思われます。
タナカさんは、平らな空間に、絵の具やペイントの断片のようなものを置いている。
置いているといったが、それは、表向きあまり計算している感じがしない。
それはおそらく、空間に置かれたものが物体的なものでなく、概跡的なものだからです。そのものは、特に意味のありそうなカタチでも構造でもない。空間上に浮かんでいるような色体が、関係も脈絡もなく点在しているかのようです。
このような、在るものが無関係な在り方は、タナカさんの操作においては、突出している。たいして広い画面空間とは思われないが、置かれた色体と色体の間にある種の遠さを感じるが、それは作者の意識の深さに関係しているのでしょう。
距離感を醸成するほうが、空間上で意識そのものを自由にコントロールできるということです。それは、画面に置かれた色体が、まるで水面に浮かんでいるようにあることと無関係ではないだろう。ふつうは、平板な画面といえども、空間構造の一端としてあり、どんな場合でもその空間体をのぞくことができるのですが、タナカさんの作品は、色体の背後にどのような空間性ものぞき視れないほど透明なのです。それはあらたな空間性を生むかもしれない。
2015年